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2023.5.10
2023年版曲目を追加しました
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CD鼓隊のお奨め形態は?
幼児鼓隊用フォーメーションデザイン用紙
シンプルフォーメーション実例1
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CD鼓隊指導用具とチューニング
指揮杖奏法の解説1
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コラム

幼児教育とマーチング

幼児のマーチングについての問題点とCD鼓隊の展望

 

数年前ですが民放テレビにて「さよならぼくたちのようちえん」というドラマが放送されていました、やはりドラマだと現実とはちょっと違うかな?と、思えるところもありましたが、概して無理のない、子役の子供たちの自然な演技の光る、心暖まる秀逸なドラマだったと思います、後半のシーンの卒園式で子供達の言葉の中に「心を一つにがんばった鼓笛隊」という台詞がほんの一瞬出てきましたが、「幼児の鼓笛隊」が日本社会に満遍なく認知されている証明がここでも明らかになりました。

 今はむしろ「鼓笛隊」が「マーチングバンド」にマスコミも教育界も切り替わりはじめてる状況ですが、もっとも浸透の早かった幼児教育においては各個別団体の自由裁量に任されている分、まだ色々な鼓笛隊の形態が残っています、園児獲得競争の中での各園の特色付けとアピールの努力はさらに一層求められている様ですが、鼓笛隊の採用団体に関しては、必ずしも効果を発揮していない園が出てきています。  特に、ある一定の厳しさを子供達に課して小学生をも凌駕するような逞しい演技を見せて会場を興奮させても、「マーチング楽しい?」と聞くと神妙な顔をして「うん」と頷く、本心で明るく「うん!楽しいよ!」と言えない子供達ばかりを育て、指導スケジュールの厳しさに教師も定着せず退職者が毎年数名に及ぶ、マーチングの練習時間を多くとるため、バスの中でも練習させ、必須の様々な社会体験も満足に経験させてあげられない、音楽的感性と才能をのばすどころか、幼児の自然な活動のエネルギーを奪い取り、将来の音楽に対する夢や才能の芽を大人の評価と言う自己満足のために摘み取る、こんな園が現実にあるようなのです。

 「あの園はすごいよ」と言う噂が一人歩きして、園児が一時増えたことがあったため泥沼にはまっているのでしょうが、この状況を維持するのは大変で本来長続きするものではありません、システムとして確率してしまっているので、意地でも続けるしかなくなっています、プライドを維持しているうちはいいのですが、職員の資質の低下などいろいろな条件が襲ってくるとバランスが整わなくなってきます。  園として強い意志を見せれば、同意して付いてくる父母もいますが、一人の人格の自立と情操のための教育としては大きな間違いであり、しだいに園児数も伸び悩んできます、周辺環境、応対、設備、各種条件など園児獲得には様々な要素がありますが、教育としての道を大きく踏み外しているために、やはりしだいに歪みがでてきて、却ってマーチングを取り入れていることがマイナス材料となっているわけです。 こんな状況を許していてはマーチングによる教育効果どころかマーチングバンド活動そのものが非教育的なものとなってしまいます。

 昨今の幼児活動はむしろ大会参加よりはむしろ地域活動を中心にして運動会や地域行事で地域の人々や家族が見守る中で、生き生きとした発表ができるだけで十分です、大会参加は子供達個々の発表体験現場としては大変有意義な物がありますが、園の立場や大人の価値観やこだわりに影響されて、無理に大会発表形態を維持している様子が見え隠れしています。それ程頑張らなくても、十分に教育的に理想的なマーチングバンド活動展開は可能なのです、もちろん大会参加は時間的に可能である範囲で積極的に出ても良いのですが。

 むしろ教育的、音楽感性的な方向にさらに高めて行ける事が可能になってきています、もちろん、最低限の時間でも実現可能です。とはいえ我々関係者の目から見ると音楽分野だけ特殊な方向に特化したりこだわりが見えたりして不安定な気がします、おかしな実体のないいわゆる「英才教育」と言う言葉の亡霊がまだうろついている様です、これも日本の音楽文化全体へ西洋音楽の導入から現在に至る社会的位置付けが不完全だったせいもあるのでしょうか?本質的な事象よりはまだステータスや当初の概念にとらわれているからでしょう、まだマスコミも「天才・・・・少年現る!」的にもてはやす気風がありますが、どんな目を見張るような天才児も一個人としての人格が完成するまで、もっと静かに見守ってあげることのほうがはるかに本人にも社会にも有益なのです。

 幼児の音楽教育における器楽分野は非常に効果的な分野である事は間違いないのですが、展開方法によっては前述のような間違いにいたる可能性があるのです、それは殆どが実態的評価(パフォーマンスとしての結論)が先に採用され、教育的機能や効果が後にこじつけられているからに他なりません、本質的でない物は淘汰される原理が働きます。  そんな中でCD鼓隊(レコード鼓隊)は発生時点から原形態をあまり崩さずに数十年の時を経ています。

 幼児のマーチング活動自体が問題化したのは、そのCD鼓隊の発生期から最近までの中間的時期になって、現状をさらに大人のマーチングバンドの編成とフォーメーションにより近付けレベルアップしようとした試みが一部の団体により始められて、現在の問題(パフォーマンスを重視するあまりに、幼児の発達過程を無視した不必要な特訓を課すアンバランスな保育形態)に至っています。


 とは言っても、この幼児のマーチング問題に関しては、幼児の発達過程と教育音楽的視点において解決する方向がそろそろ明確に見えてきつつあります、当然幼児期において必要な事をしっかりと見据えて本質的な教育に力を注ぐ事で、非教育的なマーチング形態は駆逐されていくのですが、このような過剰なマーチング指導を開始したのは幼児の専門家ではなく一部のマーチング指導者が試みに始めて、以外にも幼児がその指導に耐えることが出来たことで、強引に展開されたに過ぎないのです。

 CD鼓隊がなぜ長期間継続され、また一部の団体によりそれからの脱却を試みられる経過を辿ったか?それはある意味他の音楽形態に比較して通常の器楽合奏形態としては不完全だからと言えるでしょう、
録音された音源に一定のリズムを生演奏で加えて表現する、これには当然すべてを生演奏化して器楽合奏音楽としての機能と形態を完成させたい要求がおこるわけです、しかし、室内の器楽合奏ではなく、すべての楽器が移動可能な保持形態を取ったマーチングでは多少リスクを伴う事になり、メロディーおよび内声、低音域の楽器的処理を解決するために、最終的に固定楽器にゆだねる事になり、フォーメーションプレイの頻度は打楽器とバンドフロント手具(カラーガードなど)に重点的に高くなり、動きの量も増えてきます、幼児であるからこそ、体力、能力にそった楽曲内容のテンポや音密度がどうしても高くならないからです、そうして結果的に、幼児とは思えない機敏な動作を求めるため通常では必要のない厳しい反復練習を子供達に課す必要に迫られ、ますます幼児期の本来の教育内容とはかけ離れるわけです。


 その点CD鼓隊は、町内会の盆踊りやよさこいソーラン、お遊戯会のオペレッタ同様、メロディー、和声など表現としての主要部分は録音音源である形態のほうが、リズム表現的方向に限定できる為、指導側の作業量もかなり少なくなります、
こうなるとむしろCD鼓隊の不完全な部分をより教育的な方向に発展させる、つまりリズム表現分野にしっかりを視点をすえて、マーチング的フォーメーションプレイの部分を大幅に削除しリズム表現の部分の表現力を高めることにより、より音楽的感性を高める、と言うほうがはるかに教育的であり、単位時間も少なくて済むため、他の分野の生活体験などに時間を振り分けられるのです。


 但し、教育として内容を高めるには、今ひとつ、保育指導者の従来からの口伝え指導をある意味変革を加える必要に迫られます、いかに質の高いリズム表現を子供たちにリスク無く伝えることが可能か?リトミックなどでもいろいろな試みがなされて来ましたが、後舌母音系の西洋言語形態による情緒表現のニュアンスを含んだ現在のリトミックの方法では、前舌母音系=東洋系発音言語形態の日本人の言語リズムには今ひとつマッチしないものがあるようです。

 但し、基礎としてのリズム形態は共通しています、モーツアルトやベートーベンがトルコの軍楽隊に興奮して作曲したトルコマーチにははっきりと、フレーズの強拍部分には1.1.3のリズムが盛り込まれていますし、三三七拍子!など人類に共通する基礎的リズムはたくさんあります、


 そういったリズムに関する表現を如何に指導者も幼児もリアルタイムで読むことが出来るテキストとして、それらを絵によって表現するとどの程度までの表現が可能か?と言う事で「リズム絵譜」の実践活動を始めてみるとその有効性がどんどん実証されていきました。
単に親しみ取り付きやすくするための従来当たり前に行われてきたかわいい絵の貼り付けを、音楽リズムを視点に定めた言語のイントネーションと合体させて考えた場合に、その伝達力を始めとした有用性がかなり高いものだと気づきました、そしてその絵譜を拡大して幼児の集団の前で指し示すことによって、幼児集団によるリズムの初見演奏までが可能になってきたのです。

(初級程度のリズム絵譜では指導開始の設定保育時間内に、曲の最後まで到達が可能です、初めて出会ってすぐできる楽しさが幼児期では自信に結びつき、音楽面はもちろん、社会への背極性へと結びつきます、つらい練習に耐えることが必要な年代ではない事をしっかりと意識する必要があります)


 これらはCD鼓隊の取り組みの中から出てきたわけで当然いろいろと展開可能になりますが、まずは幼児のマーチングについて非常に無理の無い教育的取り組みが実現できることとなったわけです。
 1・質の高いリズム表現による教育的取り組みが「リズム絵譜」で可能
 2・無理の無いシンプルなフォーメーションの採用で時間を削減

この2点について幼児のマーチング活動に関してはCD鼓隊形式で行われるのが、最も無理なく楽しく展開でき、感動的で教育効果も高い、と言えるのです。

そして、リズム絵譜によって幼児も教師も的確に読み取って、部分練習の場所も、表現部分の指示も即座に示すことができることは、幼児の音楽リズム教育にとって大きな前進と言えます。

 また、教師も前方で指揮をする一点集中型(子供がオーケストラなどと同様に指揮者に集中する)でシンプルフォーメーションのリズム表現CD鼓隊においては、市販されているほとんどの楽曲をベースとしたリズム表現が可能なため(速い曲にも十分についていくことができます)、一部の子供だけではない(楽器やパートによって差が無い)、全員の、リズム感性、集中力、表現力と背筋力、肺活量など体力が明らかに向上し、集会などによるお話を集中して長時間聞き取れるようにもなってきた、との事例も増えています。

マスゲームの様な練り歩きやパターンドリルのようなフォーメーションプレイを中心にマーチング表現をしていると、前述のような効果はあまり得られません、一定の体力の向上は見られるかもしれませんが、自由遊びと比較してそれほど効果的なものではありません、歩行運動に制限されるので、俊敏なリズム表現や一点集中は難しくなり、リズムの切れや変化も限度があります、客観座標をイメージして覚えられるわけではないので、多くの反復練習が必要となります、活動的な動きはそれなりの感動を伝えることができますが、幼児の発達過程において有意義とは言えないことが多いのです。むしろ動きは必要最小限の移動だけにしてリズム表現の形とリズムそのものを美しく感動的にし、楽しい練習によって到達できることが教育者の最も考えるべき方向性なのです。

 

 

日本人と幼児音楽教育について

 

日本人は太古の昔から多くの自然災害を経験してきた世界でも希な民族です、その為、中国や他の大陸では国家間の戦争による征服や収奪を繰り返していた同じ頃、約一万年にも及ぶ狩猟採集生活の営みと災害の経験の中で自然と共生し自然の中に多くの神々を見出し、家族を大切に互いに協力し合うことを主たる規範として今日までそのアイデンディティーを継続させてきた数少ない民族のようです。


その自然との暮らしにも変化が訪れ、穀物などの生産方式の発展から、国家が生まれ、貴族社会が発生し、争いが繰り返され、やがて武家の統治という変遷から戦国時代を経て江戸時代に至り、日本人独特の文化の醸成と共に流通と科学の時代への基盤が芽生えます。そして明治維新、自らのすべてが先進の文明と錯覚した西欧文明、植民地主義の荒波に翻弄されます、そして、かつて貧困ながらも純真で明るく生きていた日本人は欧米人が驚愕する短期間の科学技術発展をアジアに先駆けて成功させますが、近代国家間の覇権争いの中で残念ながら世界大戦の敗北を迎えたのです、それからの日本人には挫折と悔恨と破壊による貧困、そして他民族支配と言う新たな経験が一気に襲ってきたのです。


過去の驚異的な日本人による歴史的実践や民族の可能性を恐れた周辺社会主義諸国や英米諸国は、日本人が始めて味わう国家体制への細かな干渉を行い、再び脅威となりうる日本社会の改造に取り組みました、政治、憲法、教育、マスメデイアのコントロールなどを当時の日本は受け入れざるを得なかったのです、そこには過去の日本の歴史や先人の営みを否定する右派左派の様々な概念が持ち込まれ、教育も社会も次第に共生の社会から個人主体の社会へと変わり、話し合いと融和の社会が対立と偏見の社会に変わっていったのです。


そんな中でも、過去の1万数千年の歴史から培われた日本人の精神は、次第に先人の想いを昨今ようやく見直し、マルキシズムやリベラリズムの幻想から覚め、本来の姿を取り戻しつつあります。
西欧の価値観からやっと脱却しつつある今日、教育における意識の変遷に視点を移すと、教育が国家制度としてではなく地方の武士や一部地域単位だった江戸時代に比較して、戦後の教育は世界各国の中でもいち早く高水準に達する質の高さでしたが、その目標は結果的には「良い大学に入って、良い会社で生活を安定させる」ただ、人よりましなステータスを追い求めるだけのものでした、そして農村から漁村から全国の地域から都会のサラリーマンへ人口の移動が始まり、地域社会の崩壊はさらに時間を経た今日でもまだ進行しています。
「読み書きそろばん、学問」と実学や教養に対する真摯な尊敬の念と公共に対する責任感を個々人が持っていた江戸時代と比べて「ガリ勉」と言う言葉から始まって、公的学校教育に対する位置づけは甚だ軽く、むしろ実学的実践指導法である塾や予備校が子供たちの大切なリフレッシュ時間を奪って繁栄しています。


西欧の価値観からやっと脱却しつつあるとは言っても、システムはまだまるで変わっていないと言うことは誰でも知ってます、「良い大学に入って、良い会社で生活を安定させる」と言う概念はもう破綻してると言うことも、殆どの人が気がつき始めています。
そんな中でどの様な教育が望まれるのか、それは「やさしく逞しい心を育てる」、つまり「すべての能力の母体となる人としての力」そのものを乳児、そして幼児教育から育てなければ意味がない、と言うことに本当はかなりの人たちが気づいているのです。
とは言っても社会のシステムが従来のままでは、いくら理想を求めても、現状に合わせた行動をとらざるをえません、ただ、ある教育期間のみは軌道修正が可能です、それが幼児教育の期間です、「お受験」と呼ばれる一部地域での極端な事例がありますが、生まれて、日本人としての過去の1万数千年につながる本能のままの生きるプログラムに最も近い幼児分野は、人の基本を形成する最も重要な年代であると共に、心そのものを形作る時期であり、人間力を育む最大の教育期なのです。


「英才教育」という言葉があります、現在はその内容についていくつかの解釈に分かれるようですが、一般的には早期の限定的技能訓練として理解され、音感教育や英語教育もその範囲に入るのかもしれませんが、一時はなんでも英才教育の名の基にそれがステータスであるかのように競って取り上げられていました、少しでも先取りして他の園には無いものを教育として採用する、その基本的思想が戦後の挫折と貧困、周辺国の干渉による過去への否定、西欧への劣等感から来ていたものではない、と言い切れるでしょうか?。
幼児の教育法にフレーベル、ピアジェ、モンテッソーリ、シュタイナーが良く耳にします、音楽ではリトミックが戦後のずいぶん長い期間多くの幼稚園に採用されています、しかし、殆どが、日本人固有の慣習に基づいた日々の教育を行いながら、日本的教育法を用いていると言う幼児教育機関はあまり聞きません、まだ多くが、園児獲得のためにステータスのみを比較するような英才教育らしきことに、必死になっています。


日本人本来の心に従って「やさしく逞しい」人間としての力をはぐくむ教育になって初めて、すべての子供たちの未来がより可能性の広がる輝くものになっていくのではないでしょうか?
音楽分野では、いまだ、他と比較する為の早期技術訓練によるステータスを追い求めた、子供にとっては苦痛のみを強いられるような、とんでもない教育が盛んに行われています。
「たのしかった!もっとやりたい!」本来ののびのびとした幼児から発せられるこれらの言葉こそ、指針となるべきですが、試練に打ち勝つ厳しさを求める発達年代を誤解している教育者たちは「世の中はそんな甘いものではない」と科学的な教育論を否定します。
戦後先人たちの大切な経験を否定してきた周辺諸国によって歪められた価値観は、この分野でもまだ醜い蠢きを続けていると認識しなければなりません、でも、この分野こそは、いち早くそれらの価値観から脱却し本来の日本人としてのシステムを取り戻すのが可能な分野なのです(ただ単にあいかわらず変化の無い受験戦争に遠い時期と言うだけでもありますが)。

日本古来の習い事の始め方に「6歳6ヶ月」と言う言い方があります、これは歌舞伎などの家元で家の家業を継ぐ際の習い事の始まりを意味します、また「三つ子の魂100まで」と言う言葉もあります、人の基本的な性格は3歳までに決まると言うことで、先人の教えです、「3歳までは愛情をしっかり注いで伸び伸びと育てろ」、と言うことだと私は理解しています、そして「6歳6ヶ月までは余計なことはしなくていいから、しっかりと愛情を注いで安心できる親子関係を築きなさい」とも考えられると思います、そして先人たちは、たくさんの、子守唄やお話やわらべ歌を残してくれています、もちろんテレビやラジオで聞かせる為ではなく、親や家族が直接聞かせる為のお話と歌なのです、「その中で人の心が育まれるんだよ」と教えてくれているんです、要するに早期教育なんかよりは遥かにそういうお話や歌が大事で、習わせ事は6歳で十分と日本の先人たちは言ってるのです。


現代社会は昔の静かな日本人のたたずまいを遥かににぎやかなものに変えてしまいました、2歳になる前からテレビを見て愛くるしい踊りを家族に披露してくれている幼児がそこかしこにいます、ある意味スキンシップを除けば、昔ながらのお話やわらべ歌の補助的な作業をしてくれている可能性は十分あります。
 このように社会からの刺激が早くから幼児に影響を及ぼし、社会性の取得も昔よりは早めの要求をされていると言えなくはありません(数年後の結果は昔と逆かもしれませんが)。
そういった意味では、幼稚園や保育園における幼児の集団における社会性の教育は幼児期の発達に逆らうものではなく、生き生きと通う子供たちにはその効果は高いと言えるでしょう、個別には家庭の状況が大きく反映されますが、幼稚園や保育園における社会性の教育成果はいろいろな分野で効果が見られます、体育,言語、生活習慣、なども顕著ですが、音楽はその中でも取り扱い方によっては両極端の結果になる非常にデリケートな分野です。

もう他人と比較したステータスを求める時代ではない
本質的な人間力を育てる教育が最も個々の才能を開花させる原点であり
画一的な先取り思想としての早期教育は却って総合的能力を低下させる
これ見よがしの、大人の満足の為の音楽教育から脱却する
子供たちが楽しく感動できる音楽実践によって、感性を豊かに、集中力を高める
友達と心を一つに、心と体力を育む音楽実践によって、社会での人間力を育む

これらのことにしっかりと向き合ってこそ正しい幼児の音楽教育になりうると思うわけです。